赤塚不二夫いろいろ

どんな人?

「利口になるより、バカになるほうが大変なんだ」と語りギャグを求めて、誰よりも『面白いこと』に命を捧げていました。歴代のアシスタントや多くのアイデアマンに支えられながら作品を完成させていきますが、才能の持ち主たちから「この人のためにしてあげたい!」と思わせる魅力あふれる人物像が伺えます。そして優秀なアシスタントであればあるほど、手元に置きたくなってしまいますが次々と自分のアシスタントたちを一本立ちさせていきます。アシスタントを独り立ちさせるたびに、赤塚不二夫としての創作の源は絶たれていくにもかかわらず・・潔い姿もまた魅力のひとつともいえるでしょう。

そして愛猫家でもあります。昭和54年(1979年)から飼っている菊千代は、死んだフリやバンザイのできる芸達者な猫だったのでCMに出演して一躍人気者になりました。猫の『菊千代』という名前は、黒澤明監督の映画『七人の侍』で三船敏郎演じた主人公の名前から採ったそうです。そして赤塚自身も漫画を描いて『花の菊千代』(『月刊コロコロコミック』連載)を描いています。その菊千代は平成9年(1997年)に他界しました。赤塚自身だけではなく周辺のファンも悲しみました。

映画通でもあるので、ハタ坊のコミカルな動きはバスター・キートンを模範にしていることを言っていていて、自分でもパロディ映画を作ったことがあることなどを明かしています。赤塚自宅のライブラリーには当時としては高価で珍しい大画面モニターと、数千本の映画のビデオがあったといいます。少年時代の夢は喜劇王チャーリー・チャップリンの弟子になることだったと語っています。

赤塚不二夫が一番好きなキャラクターは『バカボンのパパ』が一番気に入っているキャラクターでした。その理由は「どんなに酔っ払っていてもバカボンのパパの顔だけは、ちゃんと描けるから」とのことです。またバカボンのパパが赤塚の実父をモデルにしている事もあって、晩年には赤塚本人がバカボンパパのコスプレをする事が多くありました。

山下洋輔たちとのジャズメンとの交流からジャズ好きかと思われがちですが、実際の赤塚はジャズは一切聴かずに、歌謡曲好きで、美空ひばり好きでした。水木しげるの娘・赤塚不二夫の娘・手塚治虫の娘による対談集『ゲゲゲの娘、レレレの娘、らららの娘』の中でも、赤塚がジャズを聴いていないのは謎だとネタにされていますが、『おそ松くん』でイヤミがジャズを使ったギャグを言っているコマを見たジャズ評論家の相倉久人(山下の師匠的存在)が新宿ピットインの機関紙に赤塚に寄稿してもらおうとフジオプロに訪問したのがきっかけで赤塚とジャズピアニスト・山下洋輔の交流が生まれたからです。

ちなみにそのイヤミのギャグは長谷邦夫発案によるもので、赤塚の寄稿の話はなくなりましたが、ジャズ評論家の相倉の来訪をきっかけに長谷がピットインに入り浸るようになりました。その後、赤塚も山下洋輔の一派の面白さを聞きつけて、ジャズを聴くのではなく山下に会うためにジャズ関連の場所を訪れるようになりました。

反対の賛成なのだ!

芸能界での交流関係

昭和42年(1967年)テレビ番組『まんが海賊クイズ』で、当時として異例となる漫画家としてテレビの司会を、黒柳徹子と共に担当しています。これがきっかけとなって、赤塚の交流は立川談志、荒木経惟、坂田明、篠原勝之、唐十郎などの各界に広がっていきました。後に受章する紫綬褒章は荒木経惟に贈っています。

1970年代半ばに、山下洋輔たちを介してタモリと出会います。タモリの芸を認めた赤塚は、その当時大分県日田市のボウリング場の支配人だったタモリを上京させて、赤塚自身は事務所に仮住まいをしながらタモリを自宅に居候させて、のちの芸能界入りに大きな貢献をしました。またタモリや高平哲郎(放送作家)、滝大作(コメディ作家・演出家)たちと「面白グループ」を結成しています。高平からは由利徹を紹介されました。赤塚は終生、由利徹を敬愛していて、由利の弟子だったたこ八郎が赤塚家の居候になっています。この他にも青島幸男、川内康範(作詞家)、美空ひばりといった、様々な人たちと交友を持っていました。

1960年~1980年代に活動したテレビで放映されるアニメ・ドラマ・映画などの音響効果技師に、同姓同名の“赤塚不二夫”がいますが、アルバム『ライヴ・イン・ハトヤ』でも音響効果を担当するなど、2人は親交がありました。

ライヴ・イン・ハトヤ

静岡県伊東市のホテルのハトヤのステージで、ライブコンサートをやったらどうなるか?という設定で作られました。

出演:赤塚不二夫・赤瀬川原平・長谷邦夫・奥成達・高信太郎・タモリ・山下洋輔・坂田明・小山彰太・林美雄・常木健男・伊東鳩子・ハトヤ混声合唱団・下落合テンタクルス・ハトヤ男子従業員一同・ビクター女子従業員一同・ハトヤ・ダンシングチーム・ハトヤ・オールスターズ

指揮:佐香裕之

スタッフ:構成・演出:高平哲郎・音楽:小林亜星、佐香裕之・舞台監督:新井龍夫、星野ジロウ・美術:赤塚不二夫・音響効果:赤塚不二夫(同姓同名のスタッフ)・セットデザイン:茂木のぶお・写真:国玉照男・録音:寺尾寿章、佐藤晋・振付:滝大作・制作:全日本満足問題研究会・協力:伊東ハトヤ、面白グループ、協和広告(株)

このライヴ・イン・ハトヤを作ったきっかけには、昭和42年(1976年)から『週刊読売』誌上で「全日本満足問題研究会」(赤塚、赤瀬川原平、奥成達、高信太郎、長谷)と名乗ることをはじめて、「バカなことを真面目にやる」連載を行っていました。そして、昭和44年(1978年)に、レコード『ライヴ・イン・ハトヤ』を発表しました。

面白グループ

タモリ・高平・滝たち結成したグループです。

  • 1.昭和52年(1977年)3月に、タモリの初LPの完成記念キャンペーンとして、タモリと東京ヴォードビル・ショーの共演によるショー「タモリ・ヴォードビル・ウィーク」を企画・制作しました。
  • 2.昭和53年(1978年)11月、渋谷公会堂で『輝け!第一回いたいけ祭り』というタモリや赤塚の“宴会芸”を見せるイベントを行いますが赤字でした。奥成達編集で書籍『空とぶ宴会芸』が刊行されて、その赤字を埋めています。
  • 3.昭和54年(1979年)3月、日活ロマンポルノに、監督:山本晋也、脚本:面白グループ、主演:柄本明、主題歌:所ジョージ、音楽:アルフィーで、“赤塚不二夫のギャグ・ポルノ”として『気分を出してもう一度』を製作・公開しました。同年6月に、東映系で『ケンタッキー・フライド・ムービー』の日本版『下落合焼とりムービー』を監督:山本晋也、脚本・出演:面白グループで製作・公開しました。
  • 4.昭和56年(1981年)面白グループ名義で、当時ヒットしていた女子大生2人が執筆した書籍『ANO・ANO(アノアノ)』のパロディ本『SONO・SONO(ソノソノ)』を刊行してそれがベストセラーになります。5年後の昭和61年(1986年)に『ソノソノ』をミュージカル・ショーにして、銀座博品館劇場で『Oh! SONO・SONO(オー・ソノソノ)』を上演しました。
バカ田大学の秘密がわかるのじゃ!
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