ギャグ漫画王 その2

赤塚不二夫の生涯 その2

フジオプロ設立

昭和37年(1962年)に『週刊少年サンデー』で「おそ松くん」、『りぼん』で「ひみつのアッコちゃん」の連載を開始します。この作品で一躍人気作家になります。同じ年の1963年に、トキワ荘時代の仲間が設立したアニメーション製作会社のスタジオ・ゼロに参加します。翌年の昭和39年(1964年)に『おそ松くん』で第10回(昭和39年度)小学館漫画賞受賞します。

昭和40年(1965年)に、長谷、古谷三敏、横山孝雄、高井研一郎等と東京都新宿区十二社にフジオ・プロダクションを設立します。そしてこの年に長女のりえ子が誕生しました。

昭和41年(1966年)には『おそ松くん』がスタジオ・ゼロ製作によって毎日放送・NET(現:テレビ朝日)系でテレビアニメ化されました。

昭和42年(1967年)に『週刊少年マガジン』(講談社)で「天才バカボン」を発表します。バカボンは大ヒットして、一躍天才ギャグ作家として時代の寵児となりました。

昭和44年(1969年)に『ひみつのアッコちゃん』『もーれつア太郎』、昭和46年(1971年)に『天才バカボン』と代表作が相次いでテレビアニメ化されていきました。それ以後2010年現在までに『天才バカボン』は4回、『ひみつのアッコちゃん』は3回『おそ松くん』『もーれつア太郎』は2回にわたってテレビアニメ化されています。

昭和47年(1972年)に『天才バカボン』で文藝春秋漫画賞を受賞しました。

『天才バカボン』に『ひみつのアッコちゃん』『もーれるア太郎』と数々のヒットとテレビアニメ化されたこともあって、フジオ・プロに財政的な余裕が生まれこともあり「赤塚不二夫責任編集」と題した雑誌『まんがNo.1』を創刊します。(元々、まんがNo.1という名前はフジオプロのファンクラブ会報のタイトル)

実質的な編集作業は長谷が行って、赤塚の荒唐無稽なイメージを伝える事に腐心しました。しかし1号につき250万円程の赤字を出すことになり、昭和48年(1973年)に6号で休刊することになりました。

昭和49年(1974年)ギャグゲリラの連載の一環で、実験的に山田一郎というペンネームに改名して『天才バカボン』を含む連載中の作品をすべて山田一郎という名義で執筆しましたが、広告サイドから苦情が寄せられたこともあり、3か月で元に戻しました。当時はペンネームを元に戻したことについて、ロクなことが無かったからという理由を言っていました。

昭和49年のこの年に、これまでのギャグ漫画家としての功績が讃えられて、「週刊少年ジャンプ」にてギャグ漫画の登竜門「赤塚賞」が設立されることになりました。

ステージへの傾倒と長いスランプ

昭和50年(1975年)にタモリと出会って以降は、ステージパフォーマンスに開眼することになります。面白グループでの活動を筆頭に数多くのイベントを企画して出演するようになりましたが、その10年後には、漫画に費やしていたエネルギーをステージで発散してしまったという趣旨の発言をしたことによって、長いスランプに陥っている事を公言しています。

昭和62年(1987年)には、赤塚不二夫がアルコール依存症に陥った時期のサポートを行っていた、アシスタントの鈴木眞知子と結婚しましたが、この再婚は先妻の登茂子が結婚への後押しをしたことによっての再婚です。ちなみに結婚記者会見には登茂子とりえ子も同席しています。

それ以後も、入退院を繰り返していましたが回復の兆しはありませんでした。平成6年(1994年)には、長年赤塚のアイデアブレーンとして支えてきた長谷がフジオプロを退社しました。

平成9年(1997年)に第26回日本漫画家協会賞文部大臣賞を受賞しています。

平成10年(1998年)には、食道がんが見つかりましたが食道がんが発覚してからもお酒を手放すことはない状態で、記者会見の席でもお酒を飲んでいました。食道がんが見つかった同年の平成10年には、紫綬褒章を受章しています。

平成12年(2000年)4月に、硬膜下血腫で手術しています。8月に、目の見えない子供たちを笑わせたいと、点字の漫画絵本『赤塚不二夫のさわる絵本“よーいどん!”』を発表します。この作品のキッカケになったのは、ある日テレビで見た視覚障害を持つ子供たちに笑顔がなかったことにショックを受けて、「この子たちを笑わせたい」という思いから制作したものでした。点字本としては空前のベストセラーとなり、全国の盲学校に教材として寄贈されました。赤塚はこの点字の漫画絵本を少しでも安い価格で提供するためにと、印税を辞退しています。平成14年(2002年)には、点字絵本の第2弾となる『赤塚不二夫のさわる絵本“ニャロメをさがせ!”』を発表しています。

反対の賛成なのだ!
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晩年

平成14年(2002年)4月に、検査入院中に脳内出血を起こし倒れたこを機に、一切の創作活動を休止しています。この年に小学館からデビューして以降の作品を集めたDVD全集『赤塚不二夫漫画大全集 DVD-BOX』が発売されました。平成17年(2005年)からはオンデマンド出版形式で全271巻が販売されています。平成15年(2003年)に、妻の尽力によって青梅市に青梅赤塚不二夫会館を設立しています。この館内には幼少時に漫画家になることを決意させるきっかけとなった映画「駅馬車」の看板も飾られています。

平成18年(2006年)7月に、闘病中の赤塚を看病してきた妻の眞知子が、クモ膜下出血のため56歳で急逝しました。

妻が亡くなって2年後の平成20年(2008年)8月2日午後4時55分、肺炎のため東京都文京区の順天堂大学医学部附属順天堂医院で72歳で死去しました。死去する2年前の平成16年(2004年)から、意識不明のまま植物状態にあったといいます。

平成20年(2008年)2月24日に、ちばてつやが赤塚を見舞っていた様子の写真をブログで公開していましたが、後に似顔絵に差し替えられています。。赤塚の死去する3日前の7月30日に、最初の妻でもあり、りえ子の母の登茂子が死去していた事が後に報じられました。

赤塚不二夫の訃報はスポーツ新聞各紙が一面で大きく取り上げただけではなく、一般紙も一面で大きく掲載しました。民放各局ばかりでなくNHKでもトップニュースで取り上げていたことを受けて、赤塚不二夫は一時代を築いた漫画家であったことを改めて世間大衆に印象付ける形となりました。

赤塚が才能を見出して、芸能界へデビューさせたタモリは「物心両面の援助は肉親以上のものでした」と赤塚の死を悼み、感謝の言葉を寄せています。「タモリが赤塚の入院費用を全部出していた」という話がインターネットで流布していましたが、これは間違いで、入院費用は全部パパのお金で賄った、と娘のりえ子が著書に記しています。とはいってもタモリとは「肉親以上」の関係であることに変わりはありませんでした。タモリから娘のりえ子に対しても、励ましやアドバイスがあったといいます。

葬儀

赤塚不二夫の葬儀では、葬儀委員長は藤子不二雄Ⓐ(安孫子素雄)が務めて、8月6日に通夜、翌日7日に告別式が東京都中野区内の寺で営まれました。喪主には長女のりえ子が務めました。

告別式には漫画・出版関係者や芸能関係者、ファンなど約1200人が参列して、藤子不二雄Ⓐ、古谷三敏、高井研一郎、北見けんいちが弔辞を読み上げました。

タモリは本名の“森田一義”として弔辞を読みましたが、このとき彼の手にしていた紙が白紙であったと報じられて、話題となりました。

タモリは8月6日の赤塚の通夜と、8月7日の葬儀・告別式に参列しています。その告別式での弔辞は7分56秒にも及ぶものでありましたが、手にしていた紙を何度も見ながら時折涙声で読んでいましたが、実際にはその紙は全くの「白紙」でした。元いいともプロデューサーの横澤彪によりますと、後日行われた『いいとも!』スタッフの通夜でタモリと会っていて、「白紙」の件を横澤が尋ねると「白紙」だった事実を認めたそうです。前夜に書こうとしましたが面倒になったので勧進帳のギャグをやることにしたということです。

弔辞は「私もあなたの数多くの作品の一つです。」で結ばれています。弔辞を報じる記事の中で「重苦しい陰の世界」と表現されている箇所が各社に出ていますが、「重苦しい意味の世界」の間違いで、アイドル・フォーが歌う「天才バカボン」のアニメ第1作のテーマソングが葬送曲として流れる中で出棺されて、遺体は赤塚の自宅にほど近い新宿区の落合斎場で荼毘に付されました。

法名は「不二院釋漫雄(ふにいんしゃくまんゆう)」です。

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