ギャグ漫画王 その1

赤塚不二夫の生涯 その1

『天才バカボン』や『もーれつア太郎』の爆発的ヒットによって「ギャグ漫画の王様」と呼ばれた赤塚不二夫さんはとっても優しい人でこの人のためになにかしてあげたい!!と思われ慕われる魅力的な人物です。72年の人生はどのような歩みだったのでしょう~

生い立ち

昭和10年(1935年)9月14日に満州国熱河省に6人兄弟の長男として生まれました。本名は赤塚 藤雄です。父親は特殊機関員で、憲兵やスパイとして僻地で占領軍の目的や方針などを知らせて、人々の心などを安定させることを任務をしている宣撫工作を行っていました。父親は非常に厳格でいてそして権威的な父でした。漫画を読むことを禁じていたりと、とにかく厳しい父親を幼い頃の赤塚は大の苦手だったといいます。しかし父は普段から現地に住む中国人とも平等に接していました。そして自分の子供たちにも、中国人を蔑視しないように教えたりしているとても正義感の強い人物でもありました。そのため、敗戦直後に日本人への報復として赤塚家の隣に住んでいた一家が中国人に惨殺される中、普段から中国人と親密にしていた赤塚の家族は難を逃れることができました。

10歳の時に、第二次世界大戦が終戦します。父親は終戦直前に、赤軍によってソビエト連邦へ連行されて裁判にかけられることとになりました。残された家族は昭和21年(1946年)に奉天から、母親の故郷の奈良県大和郡山市に引き揚げることになりました。日本へ帰国するまでに次女の妹:綾子はジフテリアにより死去して、弟は他の家へ養子に出されたので、日本に帰還する頃には6人兄弟は半数となっていました。死んだ次女の名を継いだ生後6か月の妹・綾子も、母の実家に辿りついた直後に栄養失調のため死去しています。6ヶ月の娘を失った赤塚の母親は、その時には泣く気力もなかったため、赤塚は「胸がえぐられるようだった」といいます。日本へ引き揚げしてから小学校に編入して、5年生となりました。

2学期の頃に、5円で貸本屋で漫画を借りて読むようになります。そしてある漫画の出会いがありました。手塚治虫の『ロストワールド』です。この作品に出会ったことで漫画家になることを決意します。そして見よう見まねで、手塚風の漫画の執筆に没頭していきます。12歳の時には『ダイヤモンド島』という長編SF漫画を描いて、大阪の三春書房という出版社へ最初の持ち込みを行いました。

昭和24年(1949年)ソビエトに連行されていた父親が帰国しますが、ソビエト抑留生活や日本の敗戦などで父親はすっかり権威を失っていて、幼い頃の記憶になる父親とは全く違うような人物になっていたといいます。家族は父親の故郷の新潟県新潟市に移りすむことになり、赤塚は新潟市で中学校を卒業した後に、映画の看板を制作する新潟市内の看板屋に就職しました。仕事柄あらゆる映画を鑑賞することになり、バスター・キートンやチャーリー・チャップリンの喜劇に感銘を受けることになりました。この時期に『漫画少年』への投稿も始めています。手塚治虫が投稿作品を審査するコーナーがありました。この頃から自分の絵柄を模索し始めるようになっていきます。

18歳の時に上京します。東京都江戸川区の化学薬品工場に勤務しながら『漫画少年』へ投稿を続けていきます。その漫画が石森章太郎(後の石ノ森章太郎)の目に留まります。そして石森が主宰している「東日本漫画研究会」が制作する肉筆回覧誌「墨汁一滴」の同人に参加します。ちなみにこの同人の東京支部には、長谷邦夫やよこたとくおがいました。また既にプロの漫画家だったつげ義春が赤塚の漫画に興味を持って、しばしば東京支部にも遊びに来るようになっていました。その頃は今と違って投稿欄に住所も載せたりという緩やかな時代だったからこそだったのでしょう。

『漫画少年』が突然の休刊してしまいます。そしてつげからプロの漫画家への転向を勧められます。赤塚は、一人では心細いということもあってよこたを誘います。そしてよこたと西荒川で共同生活をしながらプロ漫画家として活動することになりました。つげの仲介で曙出版と契約を交わして、昭和31年(1956年)に描き下ろし単行本『嵐をこえて』でデビューすることになりました。

反対の賛成なのだ!

トキワ荘時代

昭和31年(1956年)に、上京した石森を手伝う形でトキワ荘に移って、第二次新漫画党の結成に参加します。それから後に赤塚の母親も上京してきて、しばらくの間トキワ荘で同居していました。赤塚の母親は、向かいの部屋に住んでいた水野英子を非常に気に入って、事あるごとに結婚を勧めたといいます。その当時の赤塚は、トキワ荘一の美青年として認識されていました。

当時の赤塚の仕事は、少女漫画の単行本を3~4ヶ月に一冊描く貸本漫画家でした。原稿料の前借をして漫画を描くという「自転車操業」状態でやり繰りしていました。そんな自転車操業状態だったので、将来を悲観して漫画家廃業を考えて、新宿のキャバレーの住み込み店員になろうと思った時期もあったようですが、安孫子素雄(藤子不二雄Ⓐ)(に「一応テラさんに相談してみたら」と勧められて、寺田ヒロオ(トキワ荘のリーダー格)に相談します。

すると寺田から「ちょっと待て。これのある間は、ここにいろ。なくなっても、もし漫画家として売れていなかったら、キャバレーでもどこへでも行けばいい」と現金5万円を渡されました。ちなみにその当時の国家公務員初任給は9200円なので、現金5万円がいかに大きい金額だったのでしょう!そしてこの時期には、石森のおごりで映画を浴びるほど観ていたので、その経験が後の作品に活きることになりました。

昭和33年(1958年)に『少女クラブ』が作家不足に陥ってしまい増刊号で、1作家1作品の原則を守りながら既存の作家で補うために編集者が石森との合作を企画します。そして合作ペンネーム「いずみあすか」というペンネームで作品を発表しました。

すると合作の楽しさに開眼して、続いて石森と水野英子との合作ペンネーム「U・マイア」で『赤い火と黒かみ』『星はかなしく』『くらやみの天使』を合作して発表しました。

同じ年に、石森の推薦で『まんが王』(秋田書店)11月号の穴埋めのために描いたギャグ漫画「ナマちゃん」が連載扱いになりました。

昭和36年(1961年)最初の妻・登茂子との結婚のためにトキワ荘を退去しました。

バカ田大学の秘密がわかるのじゃ!
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